火の用心がメインワーク
- 若林宏輔
- 2018年7月19日
- 読了時間: 3分

猛暑日が続いています。おかげで天気が良いですね。日中は外が眩しいほどです。昨日、家の近所では熱中症に注意を呼びかける車が走っていました。古典的なリマインダの方法ではありますが、京都では火の用心の拍子がほぼ毎晩聞こえてきますから、まぁ現代でも機能しないわけではないかと思います。届く範囲が狭い分、情報の精度は高いのかも。
若林は京都の町家に越してからは何度もこの「火の用心」活動を経験しました。同活動は町内会で順番に回っているのです。ある日忽然と、拍子木と棒の先に巨大な赤い将棋の駒のような板切れがぶら下がったものが玄関に置いてあります。基本的に隣家から回ってくるのだと思いますが、置かれた瞬間を目にしたことがないので、実際はどこからやってきているかはわかりません。もしかすると妖怪か何かのいたずらかもしれませんが、いずれにしても、その日の夜は「お宅さんのばんどす」という意味になります。よって家に帰宅してから、カバンを玄関に置いて、その先に何かがついた棒と拍子木を持って町内を一周します。歩きながら定期的に拍子木を鳴らすのです。「火のよーじん!マッチ1本火事のもと!」とかは叫びません。ただ拍子木を定期的に打ち鳴らすだけです。夜の街を徘徊しながら木を叩いて鳴らすという様子は、最初の頃はそのシュールさに笑いがこみ上げてきましたが、いつの間にか慣れてきてしまいました。
また拍子木を鳴らすのも、慣れてくると鳴らした音が良い音なのか、悪い音なのかの判断(というか基準または閾値)ができてきます。基本的に、この違いは、叩くときに木の芯を捉えたかによって違うものだと思います。ただ、この拍子木も角材を30cmぐらいにカットした棒2本に、それぞれ下の方に穴を開けて、紐を通してヌンチャク状にしただけの代物です。これをシンバルのように両手でぶつけ合うかたちで音を鳴らします。よって棒の持ち方によっては、叩いた時に棒を握っている親指を少し挟んでしまうこともあります。また一度そういう経験をすると、そのことが気になって、叩く際に拍子木同士を芯で捉えることができずにあまり良い音を鳴らすことができません。むしろ挟んでも構うかという意識で思いっきりたたきつけるぐらいだと、木の芯を捉え、乾いた良い音が閑静な夜の京都の住宅街に響くのです。
同様の経験は、日常の他の場面でもたまに経験するような気がします。つまり、何かが気になって本気が出せないような状況があり、そして大体の場合において、その気がかりのことを思い切って無視すると、成功するというような経験です。また、その気がかりなことの方も、当初想定していたほど大したことではなかったりするという経験もあります。指を挟んだといってもちょっと痛いぐらいで、実際は大したことはなかったはずですが(次の日には忘れているような)、そのことを人間の記憶はちゃんと覚えていて、ブレーキをかける方向に強く働くようにできているようです。
このような自動的な機能が人間にあることは、どちらかといえば安全側を確保する仕組みなはずです。ただし、そのブレーキが解除できないために、その出来事を避けるように、しないように維持し続けることに繋がると、結果的に大きな不利益が生じる場合もあるかもしれません。まぁ火の用心をしなくても大したことはないですが、どこかの家が家事になったりすると困りますからね。原因は別だとしても、「それさえあれば…」なんてことを言われたりするかもしれません。
そういう時は、やはり色々と論理的に考えてそれを実行することの価値を頭で再度理解して、最後は「えぃや!」とやってみる覚悟をどれだけ持てるかということが、人間の自由度に関わってくることかと思います。そういう場合は、何が本来で、その本質だったかを思い出せることが重要かもしれません。
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